学区の歴史
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弥生〜古墳時代(2000〜1400年前)の学区の様子 〜遺跡から考える〜

 前之輪遺跡の上に建つ緑小学校

 昭和37年、本校校舎建設の折に、敷地より弥生土器の壺が出土し、本校は農耕が営まれた弥生時代中期の前之輪遺跡の上にあることが明らかになりました。

 鳴海付近の弥生時代の遺跡は、片平学区の清水寺や鳴海学区の矢切や城など、台地の比較的高い場所から発見されていますが、前之輪遺跡は海辺に近い低地(鳴海潟の砂州)から発見された遺跡です。また諏訪山付近からも弥生土器が発見され、諏訪遺跡と呼ばれています。


1 下新町遺跡
2 清水寺貝塚と清水寺遺跡
3 光正寺貝塚
4 雷貝塚と矢切遺跡
5 城遺跡
6 前之輪遺跡
7 諏訪山遺跡
縄文時代後半から弥生時代の遺跡の分布

学区周辺の古墳群

 緑区およびその周辺では、氷上姉子(ひかみあねご)神社の西方600m〜1200mの範囲に斉山(いつきやま)、三ツ屋、兜山(かぶとやま)の古墳が並んでいます。また新海池の西側にも、大塚、赤塚、大根、狐塚、薬師山と円墳があって赤塚古墳群と呼ばれています。

 これらの古墳の多くは畑や宅地になってしまいましたが、大塚古墳は直径20mほどの墳丘(ふんきゅう)と横穴式の石組の石室が残されています。また南隣の赤塚古墳は、石室の輪かくがわかる一番底の石の列が保存されていて築かれた時の様子がよくわかります。これらはともに古墳時代も終わりに近い6・7世紀ごろに作られたものです。

 さて、弥生土器の発見された前之輪遺跡からは、その後古墳時代の終わりごろの須恵器と呼ばれる硬い焼き方の土器が見つかっています。これは最初5世紀大陸よりその技術が伝えられた新しい焼き物で、今の陶器の源となったものです。

鎌倉時代(800年前)の学区の様子 〜当時の旅日記から

 鳴海という名前からも想像されるように、かつて海が深く入り込んでいて、緑学区も石掘山・青山・諏訪山などの高い土地以外の低く平らなところは海でした。このように、海が内陸に進出してくる現象を「海進」と呼んでいます。
 
 今から五・六千年前に、もっとも奥地まで海が進入しましたが、これを縄文海進と名づけています。その後海はゆっくり退いていき、今から二・三千年前ごろには海が後退した分だけ平野が前進して、その湿地に最初の稲作農業が営まれました。

 しかし、古墳時代になると再び海進が始まり、それは平安時代まで続きました。これは、前の「縄文海進」と区別して「平安海進」といわれることもあります。緑学区一帯に広がっていたこの平安海進の海は、はじめ「年魚市潟(あゆちがた)」といわれていましたが、鎌倉時代以降はもっぱら「鳴海潟」と呼ばれるようになりました。

 阿仏尼が書いた「十六夜日記」(13世紀後半)には、「鳴海潟を通るとき、ちょうど引き潮だったので、安心して干潟を行く。ちょうどそのとき、浜千鳥がとてもたくさん現れて、道案内をするかのように、先に飛んでいった。」とあります。

 平安時代から鎌倉時代にかけての鳴海潟は、潮の干・満の差が大きく、満潮のときは危険をおかして急いで海辺を通り過ぎるか、安全な山側の道を利用しました。また阿仏尼がその前に書いた「うたたねの記」では、鳴海潟の浜辺には海水を煮詰めて塩をとるための塩釜のそまつな小屋が、ゆがんだり傾いたりして立ち並んでいた様子を書き残しています。海辺の村人たちは農業や漁業のかたわら、塩を作っていたと思われます。

 南区には塩屋町、千竈(ちかまと)などの地名が今でも残り、塩を岐阜や長野などの山国へ運ぶための、塩付街道などのあともたどれます。

室町時代(600年〜500年前)の学区の様子

  瑞松寺と「東海道」新しい町並みの形成

 諏訪山神社(諏訪社)の南側の畑から、弥生土器やそれに続く時代の土器が採集されており、緑学区の中では前之輪とともに、このあたりも古くから人が住んだところと思われます。

 諏訪山は古くは平部山と呼ばれ、大府・共和方面から鳴海で鎌倉街道に合流する峠越えの道が通っており、「緒川(おがわ)道」といわれていました。その後、東海道が整えられるのにしたがって、山手を通っていた鎌倉街道方面の人家が新しい東海道沿いに移動して、宿場町鳴海の町並みが出来上がっていきます。

 古い記録によると、平部山(諏訪山)の緒川道の人家も東海道ぞいに引っ越して、今の鳴海町平部の町並みを作ったと書かれています。それは、16世紀初めのころ、桶狭間合戦の前のことでした。また、左京山のあたりに「平部畑」という古い地名がありましたが、おそらく平部山(諏訪山)の人たちの畑があったのでしょう。

現在の東海道平部の町並み

 この平部山(諏訪山)の人たちの移転よりも110年ほど前の1396年、鳴海城主、安原備中守宗範(やすはらびっちゅうのかみむねのり)は、この平部山に大徹和尚を開山とする瑞松寺(ずいしょうじ)を建てました。明治以前は神社と寺を一緒にまつることが多かったので、諏訪社と瑞松寺が平部山(諏訪山)に並んで建っていたと考えられます。

 その後、室町幕府の力が弱くなり、戦乱の世の中になると、各地でいくさが起こり、国内は荒れてしまいました。鳴海でも、瑞松寺をはじめ、多くの寺やそのまわりの家が焼かれた記録が残されています。

 1501年、寺は建て直されましたが、新しい寺は平部山を離れ、当時出来上がりつつあった東海道の町並みの中(現在の地、中島橋西のほとり)に完成したのです。その後、18世紀のはじめに、寺の名前を「瑞泉寺(ずいせんじ)」と改め、今にいたっています。諏訪山に瑞松寺はなくなりましたが、瑞松寺にまつわるかなしい蛇の伝説は今でも残っています。

森の中にひっそりとたたずむ「諏訪社」 瑞泉寺

江戸時代の学区の様子〜地名から考える〜

 今でこそ緑区一帯は名古屋の住宅地として発展していますが、江戸時代にはにぎやかな東海道の宿場町である鳴海以外は、田園や山林が広がる静かないなかでした。

 150年ほど前の天保14年(1843)には、家の数847軒、人口は3643人と記録されています。濃尾平野あたりでは、江戸時代の小さな村々が明治になってまとまり、一つの大きな村になり、以前の村々は「大字」となって残されましたが、鳴海は江戸時代から一つの大きな村で、明治以降も大字のない町として知られていました。

 しかし、江戸時代初期の慶長13年(1608)に、鳴海村の中に相原村が独立し、承応2年(1653)に平手新田が開かれました。鳴海村は東海道筋の町並以外は人家が少なく、小鳴海(古鳴海)と前之輪の二つの枝村がありました。

 緑学区では前之輪が八幡宮(学校の南隣)とともに古くから開けていましたが、他は山林や田畑が広がっている農村地帯でした。ところが今でこそ「前之輪}と書きますが、江戸時代には「善ノ庵か善之庵」、または「前ノ庵か前之庵」と書かれていてどちらが古くどちらが新しいという区別はなかったようでした。
明治になっても鳴海村絵図には「前之庵」、四州図には「善ノ庵」と書かれていて、いろいろな名前が混用されていたようです。
 

鳴海八幡宮

 前之輪には成海神社とならんで古くから知られている「鳴海八幡宮」があります。鎌倉時代には記録も残っているので、それ以前から続いていたものと思われます。

 八幡宮は、明治になって「八幡社」と呼ばれていましたが、昭和43年(1968)に「鳴海八幡宮」と改称され現在に至っています。前之輪はこの神社を中心にした村で、「善ノ庵」や「前ノ庵」も神社に関連している名前のように思われます。

上汐田、中汐田、下汐田と続く汐田地区は、満潮のときには、海水の影響のある新しい開拓地であったと思われます。なかでも、中汐田の辺りには、江戸時代に「八幡のはな」と呼ばれていて八幡宮との関連がわかります。

 山腰のあたりは、「修理田」という地名がありました。修理田とは、そこから取れた収穫米を、寺や神社の修理にあてていたことから、鳴海八幡宮、あるいは諏訪社のための修理田だったものと思われます。
 
 母呂後は、今では「ほろご」という呼び方が一般的ですが、江戸時代には「ふろのうしろ」「ほろのうしろ」と呼ばれていました。「ふろ・ほろ」は森のことをいったことから、諏訪社の森のうしろという意味があったのでしょう。

 このことからわかるように私たちの学区は鳴海八幡宮や諏訪社と密接なつながりをもって発展してきた町なのです。

明治以降 学区周辺の移り変わり

 明治維新を迎え、汽車が1.5kmも離れた大高駅を通るようになると、鳴海の町もすっかり変わりました。江戸時代には、華やかな絞り染めの土産物を店先に並べて、にぎやかだった東海道の町並み、宿泊客で立て込んでいた鳴海の宿も、徒歩で旅をする人が少なくなり、町もだんだんさびれてきました。

 しかし、大正6年(1917)に愛知電気鉄道有松線(神宮前〜有松間)が開通すると、並び町に活気が見られるようになりました。

 電車を利用して名古屋の工場に通勤する人もだんだん増えてきました。自給自足だった農業も、名古屋という大きな市場に向けて、徳重の大根、細根の竹の子、後にはぶどうといった換金作物も多く作られるようになりました。

 
「鳴海小作争議」と雉本博士の銅像 

 鳴海の農村はごく少数の大地主とその田畑を借りて耕している小作人から成り立っていました。大正6年(1917)その年は夏の長雨で、大変な不作でした。そこで小作人たちは地主に対して、年貢米の25%を減免してもらうよう要求を行い争議が起こりました。

 この争議は鳴海町、有松町、大高町一帯を巻き込み、大正12年まで続きました。これが、「鳴海小作争議」です。一部の地主はその要求を認めましたが、裁判に持ち込んだ地主もあり、争議は長期化しました。

 小作人から仲裁を頼まれた雉本朗造(きじもとときぞう)博士は、鳴海尋常高等学校の出身で、当時の京都帝国大学の教授でした。最初博士は、両方の仲裁を進めていましたが、地主側がまったく応じようとしないため、彼は小作人側に立ち、小作人の権利向上のため力を尽くすようになりました。
 
 この争いは大正11年(1922)の帝国議会でも問題になり、その結果、地主側が歩み寄り、裁判所からの仲裁案も出て、その年の3月に一部を除いて解決しました。6年にも及ぶ長い争議でした。博士は全面解決をみる前の3月15日に不慮の死を遂げました。
 
その後世話になった小作人たちは、博士をしのんで昭和5年彼の銅像を石堀山に建てました。しかしその後、石堀山に住宅が建設されることになったため、昭和48年11月博士の銅像は争議ゆかりの地「浦里」に移されることになりました。

雉本朗造(きじもと・とくぞう))博士の銅像
住宅が建設されるまでは、石堀山の山頂にあった。
(浦里小学校西の浦里公園)

新しい緑区の誕生 〜緑小学校の産声〜

 昭和38年(1963)4月1日、名古屋市と愛知郡鳴海町は正式に合併し、新しい緑区が誕生しました。人口4万人の鳴海町を加えて、名古屋の人口は180万人を突破しました。翌39年(1964)12月、知多郡有松町と大高町も緑区に編入されて、現在の緑区になったのです。

 緑区が誕生してからも、区内一帯に住宅建設の波が押し寄せ、大規模な住宅団地(鳴海・鳴子・桶狭間・森の里・浦里地区など)をはじめ、各会社の社宅群も次々建てられました。それにともなって、小・中学校の新設開校があいつぎました。

 鳴海小学校の学区であった今の緑学区も、国道1号線以南を新しい学区として昭和42年(1967)に、鳴海小学校前之輪分校として、児童243名で開校しました。そして翌43年(1968)4月、鳴海小学校から分離独立し、緑小学校が誕生したのです。

 開校までには、校地をどこにするか、校名を決める問題などいろいろ苦労があったとのことです。もともと鳴海八幡宮の土地ですので、八幡宮の氏子会や地元の人たちの協力で土地が確保されました。校名は「緑小学校」のほか、「八汐」(八幡の「八」と汐田の「汐」)、「大汐」(大高町の一部も含む意)とか、「前之輪」の候補も出ましたが、区名の「緑」が圧倒的に地元の人たちに指示され、今の校名になりました。

資料「教師の語るみどりの歴史」「30周年記念誌みどり」

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